Homma Museum of Art芸術・自然・歴史の融合/公益財団法人 本間美術館
コラム
古文書の見方④ 【宛所の位置】
学芸員:須藤 崇
最終回となる「古文書の見方」の第4回目は【宛所の位置】について解説します。
【宛所の位置】に注目!
差出人と宛所の人物との上下関係が最も分かりやすく表れている部分の一つに、宛所の位置があります。
日付を基準にして、高い位置から書かれている場合は相手が目上、低い位置の場合は目下、同じ位の高さの場合はほぼ同格と見なしていることがわかります。
※書留文言にも注目して見てみましょう。通常は「恐々謹言」ですが、相手が目上の場合「恐惶謹言」等の表現になります。
■作品例(目下の場合)
小野寺文書《真田昌幸書状 高橋桂介宛》 (天正9年/1581)9月6日 館蔵
真田信繁(幸村)の父・真田昌幸(1547~1611)が家臣の高橋桂介に宛てた書状です。昌幸は、謀反の疑いがあった海野能登守輝幸の成敗を、弟の真田信尹(加津野信昌)に命じています。その際に、髙橋桂介が浦野周防という人物を討ち取ったことに対して、感謝にたえない、と戦功を賞する内容が記されています。
日付よりだいぶ低い位置に宛所を書いています。「殿」が崩れていることから、真田氏が高橋氏より目上の存在であったことがわかります。しかし、書留文言が「恐々謹言」であることから、昌幸がある程度高橋氏を尊重している様子もうかがうことができます。
■作品例(対等・同格の場合)
酒田市指定文化財《最上義光書状 下国宛》 (天正18年/1590)4月27日 館蔵
最上義光(1546~1614)が秋田実季(下国)に宛てた書状です。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣を促されていた義光が、伊達政宗の動静を気にして小田原に参陣できない苦労を伝えています。また、石田三成から手紙を預かっているので、使者に届けさせるということが記されています。秋田実季は、現在の秋田県北部に勢力を拡大した戦国大名・下国(檜山)安東氏(後の秋田氏)の八代当主です。
日付とほぼ同じラインから宛所を書き始めていることから、義光と実季の家格がほぼ対等であったことがうかがえます。この時、義光は花押ではなく鼎型の黒印を代用していますが、鼎型の黒印は支配者の象徴としての意味合いを持つとされ、これは羽州探題最上氏としての義光の意識を反映しているものと思われます。
■作品例(目上の場合)
寺西文書《加藤忠広書状 酒井雅楽頭・土井大炊頭宛》 (寛永4年/1627ヵ)4月21日 館蔵
熊本藩二代藩主・加藤忠広(1601~53)が老中の酒井忠世と土井利勝に宛てた書状です。常陸古渡藩主・丹羽長重に御預けとなっていた、家臣の寺西是成(伊予守)とその妻子が、丹羽家の陸奥白川への加増移封に伴って移住したことについて記されています。
宛所である酒井・土井の名が日付よりも高い位置から書かれています。書留文言は通常の「恐々謹言」ではなく、「恐惶謹言」になっており、宛所の敬称も「殿」ではなく「様」になっています。
以上のことから、忠広が徳川家光時代の幕政の中心人物であった酒井・土井両名を目上の存在と見て礼節を示している様子がわかります。因みに、差出書は奥に行くほど格上になりますが、宛所が複数人併記される場合は、順番が早い方が格上になります(この場合、先に記名されている酒井忠世の方が、その次に記されている土井利勝よりも目上になる)。
全4回にわたって「古文書の見方」を紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。まだまだ奥深い古文書の世界ですが、今回このコラムで紹介した見方で、古文書を楽しんでご覧いただければと思います。そして、多くの人に古文書に対して興味・関心を持っていただければ幸いです。
2018.02.09
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