Homma Museum of Art芸術・自然・歴史の融合/公益財団法人 本間美術館
コラム
展覧会「西郷隆盛と志士たち」でみる幕末明治②
学芸員:阿部 誠司
前回の①では、庄内と西郷隆盛との関係について書きました。
戊辰戦争の後、西郷隆盛への深い感謝から始まった庄内と西郷の交友。
今回の②では、西郷隆盛が亡くなった後の庄内の人々の動きについて見ていきます。
◇『南洲翁遺訓』の発刊
明治10年(1877)の西南戦争で、西郷隆盛は朝廷に逆らう賊名をきせられてしまいました。
明治22年(1889)、大日本国憲法の公布を機に西郷隆盛の賊名が解かれると、
旧庄内藩中老で特に西郷と親交の深かった菅実秀は「今こそ西郷の真の精神を世に明かすべき」と、
赤沢源也と三矢藤太郎に西郷の教えをまとめた『南洲翁遺訓』の編纂を指示しました。
翌年の明治23年、序文を西郷と志を同じくする副島種臣に依頼し、旧藩主・酒井忠篤が1,000部を出版。
これを石川静正などの旧藩士6名が、北海道から鹿児島まで歩いて配りました。
その後も『南洲翁遺訓』は何度も再版され、現代まで読み継がれています。
庄内の人々にとって西郷隆盛の存在がいかに大きく、精神的な柱となっていたかが伺い知れますね。
序文には、「分量としては小さな一冊ではあるが、亡き西郷隆盛の威厳や教えを、ありありと思い浮かばせることができる。、西郷どん、なぜこのように早く亡くなわれてしまったのか。あなたの姿を思い返し、懐かしく、そして悲しくもなるのだ。この書を著したのは庄内藩士たちである。」というとうな内容が書かれています。
遺訓は43章からなり、政治・経済・外交・道徳など多岐にわたります。
また、明治31年(1898)に完成した上野の西郷隆盛像。
この銅像をつくる際も、酒井家や本間家をはじめとする庄内の人々が寄附を行っています。
西郷亡き後の庄内の動きにつきましては、鶴岡市の致道博物館で開催中の「西郷隆盛と庄内」展をご覧いただくと良く分かります。(9月5日まで)
◇副島種臣と庄内
副島種臣肖像写真 ※庄内酒田古文書館蔵
『南洲翁遺訓』の序文を描いた副島種臣との関わりは、明治17年(1884)から始まります。
敬愛する西郷隆盛の没後、菅実秀は西郷と志を同じくする副島種臣を知り、
庄内の学者・書家である黒崎馨をはじめ、三矢藤太郎、富田善四郎に副島の門を叩かせました。
副島は庄内が西郷を慕い尊敬していることに心動かされ、初対面でありながら心ゆくまで語り合ったといわれます。黒崎らは副島のもとを6度訪ね、経書のことや漢詩の添削を受けました。
《尺牘 三矢・富田宛》副島種臣(副島が三矢と富田に宛てた手紙)
『南洲翁遺訓』が発刊された翌年の明治24年には、副島が鶴岡を訪れ約10日間滞在します。
旧庄内藩主・酒井家で中国の古典『詩経』を講じ、「関雎堂」の額字を遺しました。
また、明治25年にも鶴岡を訪れ、滞在中は筆をとり経書に講じる日々であったと言います。
庄内地方には副島の書が多く伝わっており、その書は一つとして同じ書風が見られない前衛的なもので、
副島の書の特徴、芸術性と言えるでしょう。
2018.08.03
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