Homma Museum of Art芸術・自然・歴史の融合/公益財団法人 本間美術館
コラム
米沢藩の名君・上杉鷹山から本間家へ贈られた屏風
学芸員:須藤 崇
江戸時代、酒田湊の繁栄にともない、商業、金融、地主の三つの事業を展開して多くの財を成し、庄内藩や米沢藩などの諸藩への大名貸しや田地の集積により、日本最大級の大地主として知られるようになった酒田の豪商・本間家。その本間家と米沢藩との関係が、深く交わるようになったのは本間家の三代目・本間光丘の頃からです。財政再建が急務となっていた米沢藩の九代藩主・上杉鷹山と、財政再建策を主導する莅戸善政は、本間家からも支援を受けて改革を進めていきました。本間家の援助に対して、鷹山はたびたび自筆の書や屏風などを贈っています。
このコラムでは、鷹山から本間家へ贈られた高嵩谷《須磨・住吉図屏風》(酒田市指定文化財)をご紹介します。
この六曲一双の屏風は、『源氏物語』の「須磨」と「澪標」(住吉)の場面を描いたものです。作者の高嵩谷(1730~1804)は、風俗画で知られた英一蝶(1652~1724)の門人・佐脇嵩之(1707~72)に絵を学び、狩野派と土佐派を折衷したやわらかい描法で、風俗画と武者絵を得意とした絵師です。
右隻の「須磨」は、朱雀帝の寵愛を受けた朧月夜との密会が発覚し、京都から摂津国須磨(現在の兵庫県神戸市須磨区)へ流謫された光源氏が茅屋の住居で秋を迎えようとしている場面が描かれています。
左隻の「澪標」(住吉)は、京都に戻った光源氏が住吉神社へ御礼に参詣した時、偶然にも来合わせた明石の君(流謫中に出会い恋仲となった女性)も参詣のため船で来ていましたが、あまりに立派な源氏の一行を見て身分の差を感じてしまい、船を遠ざけてしまうという場面が描かれています。画面右下には白鷺のとまる船の水路を示すための杭が描かれており、これを「澪標」といいます。
嵩谷の確かな描写力で源氏物語の世界が描かれた屏風ですが、元絵と思われるものが東京都千代田区の日枝神社に伝わっています。それは英一蝶の最晩年期の大作である「紙本着色 源氏物語明石・澪標図 六曲屏風」(千代田区指定文化財、ホームページでのみ閲覧可)です。この一蝶の元絵を、寛政6年(1794)嵩谷が65歳の時に模写し、のちに米沢藩上杉家に納められ、寛政9年(1797)3月、財政支援の御礼の品として鷹山は御染筆《七言二句》(自筆の書、当館所蔵)とともに本間光丘に贈りました。
また、二つの屏風の名称がそれぞれ異なっていますが、時代を経ていく過程で変わったのか、嵩谷が元絵の「明石」を「須磨」の場面だと捉えて付けたのか、いろいろと推測することはできますが、確かなことは不明です。
この高嵩谷の屏風は、現在開催中の企画展「茶道具の名品展 第一部 唐物・高麗物と屏風」(5/25まで)にて公開しています。米沢藩上杉家と本間家の関わりが感じられる作品ですので、直にご覧いただければ幸いです
2021.05.11
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