Homma Museum of Art芸術・自然・歴史の融合/公益財団法人 本間美術館
コラム
酒田の茶の湯と本間家
館長:田中 章夫
酒田の茶の湯についてはっきりと判ってくるのは、小堀遠州に作法を学んだ大森漸斎(1625~1706)を祖とする玉川遠州流が、秋田・大舘の浄應寺第十世譽田無等によって伝えられた頃です。
譽田無等は、安政3年(1856)と同五年とそれ以前に三度、酒田に来訪。市内の大信寺第十一世耕月や豪商・森藤十郎、鐙谷惣右衛門などに茶を教え、これが酒田の茶の源流となりました。爾来、酒田の茶の湯は次第に隆盛を極め、特に玉川遠州流が盛んとなります。
本間家の茶の湯については、四代光道が建てた清遠閣に茶室「六明蘆」が設けられ、歴代当主では五代光暉、六代光美、八代光弥が茶の湯に親しんでいます。
五代光暉は安政の頃、十一代庄内藩主・酒井忠発が清遠隔に立ち寄った際には、持ち道具の瀬戸雪柳茶入と虹天目茶碗で呈茶を行いもてなしたとの記録が残されています。
また、六代光美は玉川遠州流の茶を受け継ぎ、明治末から大正初期にかけて清遠隔で茶会を催すなど、酒田における茶の湯の黄金時代を築いています。
光美には茶会での逸話がいくつか伝えられており、その一つが「人間勝ばかりが能ではない。負けている方がよい時もある。勝たずにおけ、勝たでおけ」という寓意をこめ、「片手桶形」の薄茶器を好んだと言います。江戸時代から明治時代への変革期に、本間家を支えた苦労人でもあった光美らしい逸話と言えるでしょう。
光美のあとは孫の光弥が引き継いでいます。光弥は書画・茶道具などに精通した文化人として知られ、清遠閣で風雅の道を愉しみました。しかし、昭和4年(1929)に亡くなると、清遠閣の茶会は中断してしまいます。
昭和22年、本間美術館が開館すると、清遠閣の茶会は美術館へと継承され復活します。
昭和26年から平成5年まで、美術館主催の各流派による合同の茶会が43回催され、清遠閣茶会として親しまれました。
一時中断はありましたが、各流派のご協力のもと、現在も茶道具の展覧会の会期中には茶会が開催されています。
※本文は、月刊茶道誌『淡交』平成25年6月号の原稿を編集しています。
2016.05.27
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